思うこと言わねば腹ふくる…。

どうせ生きるなら、言いたいこと言って、やりたいことやってみる。そんな日々を綴ったブログです。

吐き出しちゃいなよと呼びかけてくる。

吐き出しちゃいなよと呼びかけてくる。

喉が痛い。もう喉が痛くてしょうがない。痰がたくさん出てくる。ものすごく汚い。誰かが僕にもう観念して吐き出しちゃいなよ呼びかけてくるようだった。じゃあ僕が吐き出せないことはなんだと考えた時、やっぱり近い存在のことなんだなと感じた。戦争、飢餓、貧困、原発、TPP…そんな問題や課題にばかり意識を持っていたけど、それと同じぐらい家族、親戚、親友、恋人という自分に近い存在との問題も抱えている。まずは内側のこと近くとの存在の課題に目を逸らさずに向き合うことだと感じた午前中だった。

ぶつかりたくない

でもそんなこと言ったって僕はぶつかることが嫌いだ。戦争なんて最悪だと思っている。戦争の話題や特攻隊の話が上がると『どんなに美化をしたって戦争は戦争じゃないか!人殺しをどうして美化するんだ!』という気持ちが湧いてきてしまう。なぜそんな風に思うのか?『戦火の馬』を見終わった後に考えてみた。答えは僕がぶつかることをこれまで避けてきたからだと思った。たしかに彼女ができても喧嘩なんか一度もしたことないし、サッカーをやっていた時だって仲間と言い争ったことなんてほとんどなかった。僕はぶつかることをこれまでずっと避けてきたのかもしれない。

ぶつかっている姿は汚い

それでも僕の本音は『ぶつかる姿は汚い』だ。これは事実だと思っている。自分の主観をぶつけ合っていてなんの解決にもならない。そんな姿を晒すなんて本当に汚いと思う。ぶつかり合いは個人的な喧嘩から、団体になれば派閥争い、国レベルになれば戦争とつながる。さらにはそれで金儲けをしようと考えている輩がいるのだからもう最悪だ。『なぜもっと我慢できない』『なぜもっと相手のことを考えられない』『僕みたいにちょっと言いたいことを我慢すれば済む話なのに』そんな風に心の底から思っている。

汚いものこそ美しい

ぶつかっている姿は汚い。そんな考えはちょっと違うかもしれないと思わせてくれる出来事が先週あった。僕はいつものように祖父母の家にお手伝いをしに行った。そこで一通りのお手伝いを終えた後、なんと祖父母達は親戚の中ではタブー化されていた話を僕に話し始めてくれたのだった。詳細は書かないが、その内容は端から見たらすごく汚いことだ。だから僕や親戚はこれまでずっと触れずに生きてきた。しかし祖父母達は汚いことを隠さず話してくれた。良いことも悪いことも正直話してくれた姿は汚かった。でもそれ以上に美しかった。あぁ汚いものこそ美しいのかもしれない。そう率直に感じた。

本当はぶつかりたい

ここで僕の好きな歌手を紹介したいと思う。「高橋優」という歌手だ。最近はダイハツのCMなどでも起用され少しずつ有名になってきている。その中でも僕の一番お気に入りは『駱駝』という曲だ。


高橋優 「駱駝」

『大人はバカだから』『世間体はカスだから』

そんな汚いところを隠さない言葉を必死に語りかけようとする中学生の僕は憧れた。僕は小さい頃から色んな思いを持ちながらそれを出さないようにしていた。でも本当は吐き出したいという本当の気持ちがあった。『ばかやろう』『くそやろう』『俺の方が正しいんだぞ』自分では言えないけど高橋優が代弁してくれていると、本当に苦しい時、吐き出したい思いがある時『あぁそうだよな、そうだよな』と思いながら高橋優に自分を投影するようになった。汚い自分の姿を隠しながら心の奥底ではぶつかりたいと思っていたのだ。

ありったけの愛を込めて、この街を全部ぶっ壊そうぜ。

僕は今年、様々な人とぶつかった。そのおかげで自分自身の気持ちを吐き出すことができた。人生で始めて本気でぶつかり合った1年だったと思う。でも誰もがそんな僕を誰しもが愛を持って受け入れてくれた。そんな僕がいま感じているのはぶつかる目的は相手に何かをぶつけることじゃないんだなということだ。もちろんぶつかるのだからそれは何かを相手にぶつけようとする。でも相手にぶつけようとしたのと同時にそれは自分に返ってくる。ぶつかるのは相手にぶつけるためじゃない自分を壊すためだ。相手のことを本気で愛すと同時に自分を愛するためにぶつかるんだ。『ありったけの愛を込めて、この街を全部ぶっ壊そうぜ。』そんな歌詞がどこからか聞こえてくる気がした。

それにしても、今日の夕焼けはすごい綺麗だったな。

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こうじ

お願いするなんて傲慢だ。

たくさん話そう

大学に入って、もう8ヶ月が経った。この8ヶ月間で僕の人生に大きな変化があった。その中でも家族との会話との会話が増えたのことは最も大きな変化の一つだろう。高校時代は家族よりもサッカー部の仲間といる時間が長かった。だから必然的に家族との会話はほとんど皆無に近かった。しかし大学に入って家にいる時間が増えた。家にいる時間が増えれば会話も自然と増えた。食事の時間も2〜3倍に増えた。

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 会話に比例した喧嘩

会話は増えた。特に母親とは家にいる時間のほとんど話している気がする。しかし会話の時間に比例して喧嘩の回数も増えた。会話が発生すれば「なんでそんなことに反応するの?」とお互いに気づく。それを指摘する。でもこれが家族なのかというぐらい受け入れられない。入っていることはわかるけど納得いかない感覚だ。そのうち自分の思っていることだけをぶつけるようになっている。そうなるとやっぱり傷つく。それでもこれでもかとぶつけあう。傷つきながらもぶつけ合っている。反抗期と呼ばれた時期もあったぐらいだ。でもそれでもわかってきたこともある。

 

病気と気づき

ここ何日か母親が体調を崩した。だから家のことは僕と親父でやることになった。母親はここまでひどくなるのかというぐらい熱が出て本当に辛そうだった。料理、掃除、洗濯という家庭での仕事を父は会社に帰ってきてから、僕は大学帰ってきてからこなす。普通にできていたことがこんなにも大変だったのかと感じた。それは肉体的というものよりも精神的なことが大きかった。でもそれに気づけたのはぶつかっていたからだ。ぶつかっていたから、自分てこんなにも間違っていたんだと気づけた。中途半端な会話だったらこんなには感じなかっただろう。

 

お願いするなんて傲慢だ。

今日も食事の時間に色んな話をした。そんな中で父が「こうやって病気になるといかに今が幸せか気づくよな。でも人間ってすぐ忘れるんだよ。本当にすぐに。だから俺はいつも神様に手を合わせる時は何かをお願いするんじゃなくて『しあわせにありがとう』と思うようにするんだ。」と言った。僕はハッとした。僕はいつも神様にお願いばかりしていた。試験に受かりたい!健康でいたい!もっと幸せになりたい!「ねぇ、神様!500円お供えするから叶えてください!お願いします!」普段は神様に何にも与えないくせに、自分に何か必要になった時だけ神様にお願いする。なんて自分は傲慢なんだ。

毎日同じように繰り返す日々。同じように繰り返せる会話。まずは手を合わせて仕合わせを感じてみることから始めようと思いました。


福山雅治 ♪糸/中島みゆき [アコースティックVer.Special Edition] 2015【HD】

 

こうじ

早くOFFにならないかな。

早くOFFにならないかな。

 昨日、寝る前にこんな本を読んだ。

今までにない職業をつくる | 甲野善紀 | 本 | Amazon.co.jp

その中に『稽古がない日が嬉しい現代』みたいなことが書いてあった。そこを読んで自分の現役時代を思い出した。僕は4歳からサッカーを始めて14年も続けた。高校時代は東京でトップにもなったし、それなりに充実していたと思う。でもいま思えばあの時の自分はずっとサッカーが嫌いだったんだなと。だってOFFの日が楽しみでしょうがなかったし、僕の中では練習は『辛い』もの、OFFは『楽しい』ものという位置付けなっていた。

ではなぜ僕はサッカーを14年間も続けたのか。もちろん好きという気持ちがあったのは確かだった。でなければさすがに続けることは難しかったと思う。でもそれよりも大きかったのは『意地』と『プライド』だと思う。小さい頃からできないことがあっても割とすぐにできてしまうほうだった。だからそれなりに褒められていたし自分自身に自信を持っていた。

できないことがあればできないと認めたくなかった。でも自分はサッカーが下手だった。自分はサッカーが人よりできなかった。『意地』や『プライド』が邪魔して、僕はそれを認められなかった。『いつの日か見返してやる!』そんな思いを持ちながら続けていた。だからただサッカーが好きだったのではなくサッカーで見返したかったのだ。

 

『意地』や『プライド』の為に『主将』という名前にこだわった。『サッカー部』という名前にこだわった。『侍スポーツメンタルコーチ』という名前にこだわった。ただサッカーがしたかっただけなのに。そんな『意地』や『プライド』が邪魔してきて相手と本物の関係になれない。自分で作っているってわかっても手放すことのできない感覚だ。山下浩二になりたい。なんかの名前の付録の山下浩二ではなくて。


職の名前なんてその人を表すものではなくて切り口だってわかっているのにどうしてもこだわりたい自分がいる。でもそんな自分を壊した時はすごく爽快な気分だった。そう、サッカーをやめた時だ。なんでもできる気がして視野が一気に広がった感じがした。今もそんな感じがしている。

今の自分にとっては毎日がOFFだ。なんでもできる。何かに向かうことをやめたらOFFなんてほしく無くなるのかもしれない。何かに執着することをやめたらOFFなんていらなくなるのかもしれない。この感覚を大事にしたい。

 

こうじ