諦めるということ。
僕は1年前こんなことをしていました。
そんでいまはこんなことをしています。
僕の人生は、
1、高校サッカーでキャプテンとして華々しく散り、
2、引退したら急に大学に行かないと言い出し、
3、なんとか大学に行かせたと思ったら、
4、タイに行って人生観変わったからやっぱ大学休むわ!と休学し、
5、旅したら地方に移住したくなったから大学やめるね!と退学。
6、なんか働けるところ見つかったから大分に移住するわ!と就職。
この変わりようは、まるでロケットのようです。
まさに、一寸先はなんとやらです。
そんな息子を持ってしまった両親は、最初は困惑していたものの、
4つ目あたりから、
「この子は何を言ってもしょうがないからやりたいようにやらせよう。」
と僕のことを諦めてくれたように感じます。
人によっては、そんな育児放棄をするなんて最低な!という人もいるかもしれません。
でも僕はそんな両親のことが大好きです。
「諦める」という言葉は、放棄、断念、ギブアップなど、割とネガティブな感じで使われることが多いと思いますが、「諦」という字を調べると、
あきらかに。ものの真実をよく見る。あきらめる。断念する。
とあります。
ということは、「諦める」という言葉のイメージには、いつの間にか「明らかにする」「ものの真実をよく見る」という大切な部分がゴッソリ抜け落ちてます。
家族の話に戻れば、
「息子には息子の人生があるんだな!」
という「真実をよく見た」のかもしれません。
それ以外のもので考えると、
例えば、僕は、高校卒業後にサッカーを続けることもできました。
しかし、ケガがちの身体と徹底的に向き合って現役を続けられるほど、僕に現役への情熱は残っていませんでした。
そこで、僕は自分の心の状態を「明らか」にしたわけです。
これが、両親やコーチから「絶対にサッカーを続けるんだ!」とプレッシャーを受けたらサッカーを続けていたかもしれません。
しかし、そんな状態でサッカーをしてもつまらない!ということ、小学生の時に病気として経験したので、僕はサッカーを続けることを諦めたわけです。
つまり、諦めるというのは、自分の内なる神に従うということでもあると思います。
自分のことがわかるのは自分だけ。
みんなからいろんなアドバイスをしてもらうこともあるけれど、
「自分は自分。他人は他人。」
って諦めてしまえば、割と人生が明るくなったりするかもしれません。
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